幻想と現実のはざま。意味なんて無くてもいい。
このところ、抽象絵画、abstract art、ambient、などなど、何かぼんやりしているものに惹きつけられています。
歳をとったせいでしょうか。コロナ禍の影響でしょうか。
Twitterでも、抽象画を描いている人をたくさんフォローしています。
ショートフィルムを1つご紹介。
突然ですが、ショートフィルムをひとつご紹介いたします。ひたすらスケボーする映画です。
(22分35秒ありますので、気になる方だけ見ていただければと思います。)
私はこの映画がとても好きで、何度も見ました。ここに載せたついでに、ついもう一回見てしまいました。
ストーリーはありません。ただ淡々と、スケーターの日々を描いている映画です。
実は私も若いころはスケボーにハマっていました。あまり上手には滑れませんでしたが、夜の街でガリガリカタカタと滑るのはなかなか気持ちのいいものでした。
でもこの映画が好きなのは、スケボー好きだからという訳ではありません。
この「日常とスケボーの同一視」という不思議な感覚と、なんとも心地良い選曲がとても気に入ったのです。
例えるなら、商品カタログ。 商品らしき商品が載ってないのに、なぜか心惹かれる商品カタログ。(そんなものは無いか。)
日常は抽象的、とも言えないだろうか。
例えば普通の映画。
主人公がいて、そのほかの登場人物がいて、ストーリーがあります。さらにハラハラドキドキすれば、その世界に引き込まれます。
これを絵画で言うと、ある歴史的な瞬間を描いたものや、写実的な肖像画と言えます。
伝わってくるストーリーと、人物が明確だからです。
でも上記の映画のように、ただ淡々とした、ストーリーもない、単なる日常の映画だったらどうでしょう。
日常に意味などありません。絵画に例えると、何か漠然とした抽象絵画と言えそうです。あるいは、ミニマルアートのように、同じものが何度も繰り返し描かれたものかもしれません。
・・・ストーリー展開は「全体の構造」、主人公は「具象」と考えると、その逆である日常生活は、ストーリーもなければ、主人公もいません。
そう考えると、「日常は抽象的」とも言えます。
幻想と現実の違いがわからなくなってきました。
では今度は逆に、「抽象絵画」はどう解釈すればよいのでしょうか。
見た目は幻想的であり、具象は何もない。
それはつまりボンヤリ。
意味なんて無いボンヤリな日常。。つまりそれは現実。
抽象絵画は日常的?
「もうわからん。どっちでもいいわ。」と言いたくなってきました。
詰まる所、どちらでもよい。
投げやりになってしまったわけではありません。
ただこの難しい状況を言語化するのは、今の私には無理だと思い始めました。
私は言語を扱う仕事をしているわけではありません。これはいつか、プロの方にお願いしたい。
でも自分で何か思いついたら、どんどんみなさんに伝えていきたいと思います。
今はとにかく、ご紹介しましたスケボーの映画のように、日々好きなことをあれこれと考え、行動し、記録していけば、いつのまにか全体像が出来上がっていくのだと思います。人に認められたり、お金が儲かったりしなくても、結局のところ、人はそういった生活を送るしかない、と思うのです。
まとめ
そもそもなぜ「幻想」や「現実」について考えたかといいますと、波紋堂の製品(「作品」と呼んでます)を、次のフェイズに進めたいと考えているからです。波紋堂は「実験」を大切にしています。みなさんの前で実験をして、自ら実験台にもなり、結果をお見せすることで何かしらのお役に立ちたいと考えています。
いま考えているのは、幻想と現実を行ったり来たりするような世界観。果たしてそんなものはできるのでしょうか。でも何かできれば、とても面白そうです。
波紋堂はこれからも頑張ってまいりますので、どうぞ暖かく見守っていただければと思います。
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