「雑貨」について考えてみた
「板金雑貨」を標榜してしまった手前
波紋堂が勝手に作った名前、それが「板金雑貨」。そんな勝手に言葉を作って標榜してしまった手前、説明をしておかねばならないと考えました。
今になって、安易過ぎたかもしれないと少し反省中。
「でも、悪くない」と消極的に肯定しています。
ここに来て急に「雑貨とは何か?」と考えるに至ったのはこちらの本がキッカケ。
「雑貨の終わり」(新潮社)三品輝起著。
西荻窪にある「FALL」という雑貨屋さん。そこのご主人が書かれた本のようです。(波紋堂からも結構近い。)
なんとなく懐かしく、癒される本、私はとても好きです。
そもそも雑貨とは何なのか。つまり「雑」な「貨」です。
いやいや「雑」というのはあまりよい響きではありませんね。
でも「雑貨」というと、なぜか懐かしさや嬉しさが込み上げてきます。オシャレで知的な空気すら流れてきます。そこには何らかの「美」があるはずです。不思議ワード。でもなんとなくモヤモヤする言葉。
つまるところ、行き詰まって、「雑貨」に行き着いた
波紋堂の製品のポイントは、最初は「デザイン」だと考えていました。
でも今時のデザイナーさん、クリエイターさんとお話ししているうちに、波紋堂の活動はそういう方達とは全然違うことに気付きました。
まず波紋堂とても不器用で、自分にできる範囲ことしかやっていません。
何しろ「企業に依頼された案件」ではないことが大きな違いです。
勝手に作りたいものを作る。。ということは、、つまり「アート」だと思いました。
そして波紋堂の作品はアートだと標榜し始めたわけです。
しかし今度は、アートを作っている方々の様子を観察していると、全く違うことに気が付きました。
何しろ作品に作家性が無いのです。アーティストではありませんから。
そこで波紋堂に合うものを探し回ったところ、ちょうど良いものを発見しました。
それが「民藝(民芸)」です。
作家性が無いけど、なんだか芸術作品っぽい。個人的に柳宗悦の思想にも共感するし。
これだ! と思ったのですが、、何かが違う。。
何しろ波紋堂には「伝統」が無いのです。だから民藝品の仲間入りすることはできません。悲しい。
そしてまた、あちこち探し回った結果、ついに見つけたのが「雑貨」です。
フワフワ浮遊している独りぼっちな波紋堂
こんなにフワフワ、独りぼっちの波紋堂。ここで、もし「雑貨」にも仲間入りさせてもらえなければ、もう行き先は見つかりそうにありません。
その残念な事態への保険として、せめて「板金雑貨」という独自のジャンルを作ろうと考えました。名を作ることにより、自己完結。
孤高でも高踏でも反世俗でもありません。自己満足もありません。ただ一人で、フワッと浮かんでいる感じです。
今後ともよろしくお願いします、「板金雑貨」。
そのような経緯があり、「板金雑貨」に辿り着きました。
ひとつお見知り置きいただければ幸いです。だからどうしたと言われれば、返す言葉もございません。
でもここ(板金雑貨の世界)は、まるでジャングルを彷徨ううちに何時の間にかたどりついた安息の場所のようでもあります。
ただ落ち着く、良い感じの場所。それだけで満足することにします。
ではまた。