アート、芸術の民衆運動は進みまくっております。
アート、芸術におけるご著名な方、権威ある方、いままでどうも有難うございました。
そういった皆様のおかげで、民衆・大衆がその活動やマーケットの主役になりつつあります。
私、個人的にwikipediaに寄付しておりますもので、ちょっとリンク貼ってみたくなりました。「民衆を導く自由の女神」
アート、芸術。今までそれは、「特別」だった。
この絵、別に芸術を茶化しているわけではございません。なかなか丁寧に描く時間がなく、このようになってしまいました。ちなみに手に持っているのは「赤べこ」です。
さて、芸術には新しい潮流が起こっています。民衆化へ向かっています。一部の著名なアーティスト、権威のある方々からは、「そんなの芸術じゃない」と否定されることでしょう。
でもそういう「従来」vs「新しい」の構図、あちこちにあり、もう痛々しいほどに「従来」の方が敗北者となるのを見てきました。そしてこれからもあちこちで発生するものと思われます。
いままでの芸術。例えば民藝運動を取り巻くいろいろ。
かつて、柳宗悦が起こした民藝運動。(詳しくはwikipedia「民藝運動」)
柳宗悦は、北大路魯山人とすごく仲が悪かったようです。(どちらが先に喧嘩を売ったのかはわかりませんが。)お互いに結構辛辣な批判をしていたようです。なんとなく北大路魯山人の方が強そうなイメージですが、柳宗悦も負けてなかったようです。
どのような対立だったかといいますと、まるで今の民主主義の分断のような様相です。
- 柳宗悦 → 民衆をよ〜く見ている人
- 北大路魯山人 → お金持ちや権力者をよ〜く見ている人
(ザックリし過ぎてごめんなさい。)意識がどこに向いていたか、という部分だけを切り取りました。
しかし、お金持ちと権力者のパワーは絶大でした。なんと柳宗悦や民藝運動は、一時芸術の世界から消し去られました。
今はwikipediaの記述も書き直されているようですが、実は以前、「民藝運動は、失敗に終わった芸術運動」と説明されていました。おそらく魯山人側の人が書いたものと思われます。恐ろしいですね。歴史は勝者によって書かれると言いますから、まさにそれに習ったのでしょう。(あくまで私の想像ですが。)
でもそれが、魯山人側(?)の人の失敗でした。「wikipediaはだれでも修正できる」ということをウッカリ忘れていたのかもしれません。wikipediaは、多くの人が、そこに事実が書かれていることを望んでいます。そして民藝運動の記述は書き直されました。
これはデジタル技術が歴史の記述のあり方を変えてしまったとも言えます。とても大きな変化です。
民衆が、ちょっとだけパワーアップ。
今までは勝者が歴史を書き記してきました。それは事実のみとは限らず、「嘘でもいいから勝者に都合よく」書き記されてきたこともあるとされています。
「書き換えるヤツは悪いヤツだ!」と、非難したいわけではありません。ある意味、権力者の力は強ければ強いほど国を統治しやすくなります。安定して統治されれば、民衆も嬉しい。多くの民衆のため、時には歴史の記述を変更することもあってよかったのだと思います。
でも今のデジタル時代、それができなくなりました。権力者の強力な武器(歴史の操作)が使えなくなったのです。さて、どうしたらいいのでしょうか? 歴史上、そういう経験をした権力者はいないはずです。見習うべき事例がありません。
さて、そうやって権力者が迷っている一方、民衆は微妙にパワーアップしています。
なぜなら、以下のような変化が起こったからです。
- 情報が得やすくなった
- 情報を発信しやすくなった
- 人と繋がりやすくなった
つまり、「一部の強者が少しパワーダウン」vs「大量の弱者が少しパワーアップ」という構図です。(別に対立する必要はないのですが。)
これはもう、数が多いほうが圧倒的に有利になってしまいます。
人類にとって未知の状態。果たして、人知はこれにどう対処していくのか。
音楽の世界では、すでに大きな変化が。
定額で聴き放題! ←このインパクト!
私が子供の頃は、マイケル・ジャクソンが大スターでした。子供なりに一所懸命お小遣いを貯めて、レコードを買い求めたものです。でも今は、なんでも聴き放題。そしてだんだん、プロの作品とアマチュアの作品の違いすら無くなってきました。
もちろん、TVやネットで有名になったアーティストが、多くの人やお金が集める、という構図は今でもあります。でも単純に「音楽を聴く」ということに関しては、もはやビジネスモデルが完全に転換してしまっています。
アート、芸術にも変化があっていい、と思う。
こと芸術に関しては。。
銀座の百貨店やギャラリーで展示している高額な作品を、ごく一部のお金持ち物色しにくる。
作品のバックグランドには「◯◯芸大卒」「〇〇賞受賞」。そしてお金持ちがそのバックグランドを見て確認。ギャラリーの人にあれこれ話を聞いた後「金額を教えていただけますか?」。聞かれた方は、相手の経済力を推し量りながら金額を提示。そしてお金持ちが購入。
もっとお金持ちは、オークションで〇〇億円!!などで盛り上がる。
これが今のアート、芸術のマーケット。
こんな状態は、なんだか寂しいと私は思います。 もっと変化があってもいい。 一般の人がもっと身近に感じれるようになる変化があってもいいと思います。
ネットでポチッと購入するアート、もしくは、ネットで無料で鑑賞できるアート。そんな時代が来ても「まあそうなるだろうね」というくらいの感覚ではないでしょうか。
実際に変化が起こっていないだろうか?
芸術作品のギャラリー等での販売。これに関しては、いままでどおりでよいと思います。慣習に従って粛々と続けるのも、決して悪いことではありません。
ただ、インターネットの中では、もう作品が溢れています。例えばTwitterを見ていれば、多くの人が素敵な作品をアップしています。新しいものが日々追加されています。まだ今は、とても小さな画面で見るだけです。でもそれは、データ量とデバイスだけの問題です。あっという間に4Kの動画がスマホで簡単に撮れるようになりましたので、近い将来、肉眼で見るのと変わらないレベルの画像が見れるようになるはずです。
「ネットで見る作品」〜「リアルで見る作品」このギャップはどんどん狭まってくることでしょう。
ですから、ギャラリー等のリアル店舗は「やっぱアナログもいいよね」というときだけに利用される場となるのだと思います。そうなるまで10年もかかりません。
必ず反発がある。Yes! It’s OK!!
急速な技術革新。これ対して、かならず強い反発。
お年寄りなど、一部の人だけかもしれません。必ず、「今までの方がよかった」という勢力が台頭してきます。
でも技術革新は、その反発すら折り込んでいるようです。技術革新を進めていく人たちにとっては、「あーいつもの反発系ね。」と些細な障壁にしか見えないのだと思います。
ちなみに私はこの10年、実はデジタルに反発してました。ですから、SNS等には全く着手してませんでした。10年ほど前に少し使って、「面倒だからいいや」と放置していたのです。
しかし!
今になって焦ってます。もうしがみ付いていくだけで大変!! でも置いていかれるよりずっとマシです。置いていかれると、人間関係やお金にどんどん困って、先の見えない暗闇をさまようよな気分になるからです。だから、頑張ってついていくのです。
まとめ
そのようなわけで、アート・芸術は民衆化し、身近になり、作品は安価になるのでは、という私の未来予測でした。(実際はそんな単純ではないと思いますが。)
技術革新は、人間の自然な営みであり、避けて通れない。だから受け入れて、試してみて、乗りこなして、次の流れを考えていきたいと思います。
ちなみによろしければ波紋堂の作品もどうぞご覧ください。→product